1972(昭和47)年~
三代目社長赤坂芳雄 十勝・ツーバイフォー工法のパイオニア

1972(昭和47)年~1985(昭和60)年
三代目 赤坂芳雄

 赤坂芳雄を知る人は、彼は道東十勝におけるツーバイフォー工法住宅の偉大なパイオニアでありその普及と発展に多大なる貢献を残した人物として衆目の一致するところです。
 芳雄は昭和14年(1939年)11月25日父弘の次男として生まれ、幼少の頃から父の仕事に憧れ、やがて師事指導を得て大工の道に歩む。昭和47年(1972年)芳雄33歳の時父からバトンを受け、三代目となる。
 その頃は、オイルショック、高金利時代、低所得と人々にとって家づくりには大変厳しい時代でした。父から家業を引き継いだばかりの彼が、この厳しい脱却から抜け出そうともがいているとき、彼に一大転機が訪れた。


米国行きの参加案内

 昭和50年(1975年)帯広の長谷川産業建材店が主催する第1回米国住宅産業視察研修団に参加。そこには目を見張るような建造物、先進のライフスタイル、米国の住宅の堅牢性、耐久性、さらに驚いたことは『大工のスピードがまるで違う!ショックでしたね、ツーバイフォーは』また住宅の寒地への適性を見るにつけ、『これからはツーバイフォーを俺の生涯の仕事としよう』と誓った。

 昭和46年に設立していた日本ホームビルダー協会が中心となってツーバイフォーのオープン化に貢献し、この工法の技術指導研修会が協会を通して各地で行われ、帰国後の6月札幌でアメリカの技能コーチを招いて開かれた。芳雄も精力的に研修会に参加(し、 or 。)そのノウハウを積極的に吸収した。日本ホームビルダー協会北海道部会の会員になり、その十勝支部の主要メンバーになり研鑽に励んだ。


札幌で開かれた研修会。田川氏、山口氏の顔が見える。8ミリ映像より。撮影:赤坂弘

十勝に於ける初めてのツーバイフォー住宅の建設を知らせる新聞記事。十勝毎日新聞 昭和51年6月21日

昭和51年春。ついに念願のツーバイフォー工法住宅を誕生させた。これは十勝で初めてのこと。道東でも初めての快挙な出来事でした。この時は大変話題になり、NHK帯広放送局、各新聞社が取材に訪れたり、役所の建築関係者、税務署まで見学に来たという。小規模の23坪の平屋建てであったが、芳雄のツーバイフォー造りは、ここから始まった。

記念すべきツーバイフォー工法住宅第1号。音更町木野 清水邸
着工から竣工まで。昭和51年6月~8月  撮影 赤坂弘

 オイルショックから立ち直りをみせた住宅需要も土地の高騰、資材の値上げにより、マイホーム希望者の所得とのギャップで需要激減となり、更に高金利時代が追い討ちをかけた。自分が目指したツーバイフォー工法住宅に対する一般の人の認識も不足し、芳雄の苦悩は続く。

 低調な住宅需要時代にツーバイフォーの新工法で挑む芳雄は昭和52年10月19日の建設工業新聞の社説に注目。仲間と結束してツーバイフォーの大きなメリットを需要者にPRする必要性を感じた。

新聞を使ってのツーバイフォーのPR

 住宅施工見学会の実施、新聞広告、ラジオやテレビ、大学の先生を招聘し、一般の人を招いた研究会の実施などを次々に行った。こうしてツーバイフォー一本で経営の安定を確保して行く事が出来たのです。

正月3日は恒例のお得意様招待の“正月会”

 赤坂建設の恒例となっている『正月会』ではいままで家を建てて頂いたお得意様をご招待して、一人一人に新年の挨拶を交わし、日頃のお礼を申し上げコミュニケーションをはかる。『工務店は地域住民のための住まいの町医者であれ』を心がける。口コミは依然として大きな工務店の力なのだ。

大学の先生や同業者も集まった研究発表
模型を使って現場公開

 建主様による『私のツーバイフォー工法住宅発表』というユニークな研究発表と講演会が大変注目された。真冬の室内温度の記録や一年間の灯油使用量の報告、暖房を切ってからの室温の変化などの実データを基により優れた家づくりを追求した。同業者も参加する熱気溢れるものだった。十勝の厳しい冬のデータを建主さんに協力して貰って蓄積した。大学の先生を招き討論を重ねた。この頃は学者もまだ判らないことが多い時代だったのです。

テレビのコマーシャル

 芳雄は成長する地域住宅会社は『請負型体質』から『営業型体質』への戦略転換の成否にあると考え、その戦略の一つがPRであった。チラシ印刷物に加えラジオのコマーシャル、テレビでも宣伝した。会社の知名度は上がってきた。多くの人を集め、自分自身を売り込む事で当時まだ認知度の低い工法での熱弁は“ツーバイフォー狂の赤坂芳雄”の異名をとった。  子供達の学生鞄には「2×4」と書かれたステッカーを張り、着て行くトレーナーの服にも「2×4」のロゴがプリントされたものを貼り、皆から『2かける4って何なの』(と)茶化された。当時ツーバイフォーに賭ける芳雄の情熱は並外れたものがあった。

昭和57年ツーバイフォーも軌道に乗り社員も元気に輝く
パリ ノートルダム寺院

 芳雄は昭和39年1月21日池田町長新津秀氏の末娘直子と結婚。2男1女を授かった。長男は現社長の正、次男秀次は鹿島建設に勤め活躍している。長女千鶴は結婚して千葉に住んでいる。

カナダ ペンチクトン メモリアルアリーナ

 芳雄のたゆまぬ研究心と新しいものに挑戦するその行動力を生み出したもの。それは妻直子の強く優しい支えがあったことに他ならない。『俺は直子がいたからここまでやってこれたんだよ』辛い力仕事も嫌な顔をみせず頑張り続けた妻にこう言って労った。芳雄は心から直子に癒されていた。親切で明るい性格は誰からも愛され、建主さんからも同業者からも『直ちゃん直ちゃん』と慕われた。この事は仕事上大変プラスになった。これこそ内助の賜であった。誰もが羨む仲の良い夫婦で家庭は円満でした。

ロサンゼルス ヒルトン・ホテル

 父から子供達の面倒を見るからと夫婦で海外旅行した時、日頃の辛い毎日を報えることが出来て芳雄も嬉しいし、直子がいれば倍楽しい、と述べた。

 日本ホームビルダー協会は昭和51年日本ツーバイフォー建築協会に吸収され、十勝地区のメンバーは芳雄と田川氏の2名だったが、昭和54年11社が集まって独自の協会を立ち上げた。十勝ツーバイフォー建築協会の設立である。初代会長が芳雄である。協会は設立して30余年。地方の一組織がよくもここまで維持出来たのは、芳雄等が持ち前の探求心と若さで、海外研修などでありとあらゆるツーバイフォー工法に関する知識を吸収しつづけた伝統が今でも息づいているからに他ならない。協会の例会は2×4に因んで毎月24日に開かれていて、それは未だに続いている。

 現在の会長は当社の社長正で会社100周年目を迎えて、父芳雄が築きあげた協会に親子して連なるというまさに感慨深いものがある。

池田町開基70周年 渋谷みのる 丘千枝と競演

 北よしのぶ&ブルースターズと云うバンドをご存じでしょうか?昭和40年代半ばにかけて活躍したこのバンドは、池田町民に深い印象を残しました。町最高のバンドであった。芳雄はバンドの一員としてギターとボーカルで活躍した。当時流行したマヒナスターズスタイルで、渋谷みのる、丘千枝等と競演した。

結成時の十勝ツーバイフォー協会の名簿。会を牽引した赤坂芳雄が初代会長
ジーンズに丸鋸、金槌、鋸これが芳雄のスタイル
受賞の対象になった池田町F邸

 省エネルギー月間の行事として財団法人住宅・建築省エネルギー機構が主催した「第3回省エネ住宅コンクール」に初めて応募。日本ツーバイフォー建築協会会長賞の受賞に輝いた。昭和59年2月28日建設省で行われた表彰式に出席して賞状を受けた。
 ツーバイフォー工法住宅を手がけてやがて10年目を迎える芳雄は数々の省エネアイデアを実用化し、その成果が評価されたのでした。

昭和59年2月23日(1984年)北海道新聞

 受賞に輝いた住宅には多くの省エネ工夫がもりこまれている。中でも大きな特徴は窓の外側に取りつける発泡ポリスチレン入りの断熱防寒戸などで、新聞紙面に詳しく紹介された。

カナダのタウンハウスを視察

 ツーバイフォー工法住宅の先進地カナダを訪れた際にいつも頭にあったタウンハウス。共用庭を持つ、省土地型の連棟住宅で広い庭を共同で使用し、敷地の境界線は関係なく、豊かな環境を作り出し、広いままの庭が生活環境を豊かに美しくする。狭い日本だからこそタウンハウスが必要と常に考えていた芳雄は、自然に合った家並み、変化に富んだ外部空間を共同住宅に、今までにない想像溢れる息吹を込めて提供しようと建設を決めた。

芳雄の最後の仕事タウンハウス。後方にも一棟が見える

 カナダで得たノウハウを十勝風にアレンジした二棟のタウンハウスは昭和59年から着工した。

 この年の夏。芳雄は突然の病魔に襲われて入院して、僅か半年後の昭和60年1月21日に急逝してしまうのである。常に新しい仕事に打ち込んできた芳雄にとって、これが最後の仕事になった。ほぼ完成した建物を見届けることが出来たことは何よりの慰みになったことでしょう。

 ツーバイフォーに取り組んでから10年。命が燃え尽きるまで、芳雄は熱情の火の塊となって、走り抜けて行った。享年45歳の若さだった。

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