1917(大正6)年~1972(昭和42)年
二代目 赤坂弘
赤坂弘は父の郷里福島県田村郡で明治33年(1900年)10月に出生。彼が7歳の時一家で北海道にやって来た。大正元年に池田町に移り住んだときは12歳の少年だった。わずか18歳で父先代の死にあって当主となった弘は、残された母や弟妹を擁して心底不安に陥りながらも亡父の跡を継ぎ、居を西2条6丁目に移して開業した。
大正8年(1919年)1月3日富士製紙池田パルプ工場が開業。それは池田を飛躍的に発展させた。煉瓦、製軸、酒造の各工場のほか電気、亜麻等の工場が次々と建設され、まさに工業都市池田の観があったほどで、商店も28、サービス業12等、大正の池田は池田の歴史を通じてまさによき繁栄の時代であった。弘はパルプ工場の営繕部の仕事もこなし、つねに父母とともに世間の明暗を見つめてきただけに事業もまた親ゆずりの着実性に徹していた。パルプ工場時代彼は趣味を通して多くの知遇を得ることが出来た。それは一部の人しか持っていない暗箱と云われたカメラの撮影でした。また当時多くの文化人があつまった謡曲でした。それで町内著名人宅に出入りして交流することが後の仕事に役立った。
しかし時代の推移は、雲が流れてきてまた去って行くように、日本皮革会社池田工場は大正12年(1923年)閉鎖。町勢発展に甚大な貢献をしたパルプ工場も昭和5年(1930年)閉鎖するという、昭和初期の変革は業界に暗い影を投げかけた。
昭和5年12月、弘30歳、郷里から迎えたチヨと結婚。いよいよ名実ともに一本たちになって翌6年2月、現在地に移転し住居兼事務所とした。
昭和8年製材部を加えて建設業に機動性を備えた赤坂木工場の操業に入り、加工、省力等合理化をはかった。地域の需要もあり、木工場は昭和40年代まで続いた。
昭和10年(1935年)写真や謡曲などを通じ、弘を可愛がってくれた中島竹雄先生から特命で病院建設を委ねられた。中島竹雄氏は明治14年(1881年)3月鹿児島県加世田村で出生。明治44年(1911年)1月鉄道医の嘱託となって池田にきて駅前で北海療院を開業。大正11年(1922年)池田病院長。歌人で翌大正12年短歌同人牛蘭社を創設した。歌人若山牧水が大正15年(1926年)北海道を旅し、池田に入り中島竹雄宅に1泊。幕別町には中島氏等の寄贈による牧水の歌碑が残されている。また中島竹雄氏は昭和6年(1931年)長男一郎を病気で失ったとき香典で有志とで清見ヶ丘公園に桜二千本を植樹。その後は桜の名所として知られ、昭和25年(1950年)第1回池田町桜まつりが開催された。昭和23年67歳で死去。池田町初の名誉町民として山本與七郎氏とともに選ばれた。
中島病院の建築は町内の業者では至難とみられる規模で工事費は二万五千円。8年前の池田町役場新庁舎の工事費二万円余と比べても、その規模がいかに大きなものだった事が判る。この特命に感激した彼は町内の棟梁十数人に呼びかけ大工職人45人以上を使役するという大事業を手がけたのである。鉄骨に近いラスを使った分厚いモルタルはかつての工法を超えたもので、工事現場で発動機を使ったのも町始まって以来の出来事であった。当時は十勝管内でも屈指の建造物の一つに数えられた。続いて池田郵便局、高森呉服店など、市街の代表的な建物を次々と手がけた。
弘は戦時中大工組合の副会長として活躍。警防部長、衛生部長、町内会長、戦後は民生委員など多くの公職を歴任した。
趣味の写真は玄人はだしで、夏やしい写真乾板を多く保存、戦後は膨大な8ミリフイ(ィ)ルムを残した。近年デジタル化して劣化から守っていまでも活用している。昭和64年(平成元年?)7月北洋相互銀行池田支店ロビーで大正から昭和初期の貴重なガラス乾板から起こした半切版の写真12点の写真展を開いた。
彼には二男三女があり、次男芳雄がこの道の後継者になることを決め、弘のもとで修業して昭和47年(1972年)芳雄が三代目になり、95歳で亡くなるまで会長として活躍した。
ヒストリー目次 「創業100周年記念誌」より抜粋
- 1 | 1907(明治40)年~初代社長赤坂貞蔵 池田町で赤坂建設創業
- 2 | 1917(大正6)年~二代目社長赤坂弘 病院建設では大工45人以上を動員
- 3 | 1972(昭和47)年~三代目社長赤坂芳雄 十勝・ツーバイフォー工法のパイオニア
- 4 | 1985(昭和60)年~四代目社長赤坂直子 『赤坂建設友の会』誕生
- 5 | 1999(平成11)年~五代目社長梅田和敬 「R‐2000」仕様住宅を実現
- 6 | 2005(平成17)年~六代目社長赤坂正 大工育成・プランニング力・防災対応力強化