ヒストリー目次 「創業100周年記念誌」より抜粋
- 1 | 1907(明治40)年~初代社長赤坂貞蔵 池田町で赤坂建設創業
- 2 | 1917(大正6)年~二代目社長赤坂弘 病院建設では大工45人以上を動員
- 3 | 1972(昭和47)年~三代目社長赤坂芳雄 十勝・ツーバイフォー工法のパイオニア
- 4 | 1985(昭和60)年~四代目社長赤坂直子 『赤坂建設友の会』誕生
- 5 | 1999(平成11)年~五代目社長梅田和敬 「R‐2000」仕様住宅を実現
- 6 | 2005(平成17)年~六代目社長赤坂正 大工育成・プランニング力・防災対応力強化
ごあいさつ
ごあいさつ
創業100周年を迎えて
赤坂建設は2012年2月1日に創業100周年を迎えることができました。
これもひとえに、地域の皆様の永年に亘る暖かいご支援の賜と深く感謝申し上げます。
100年の歴史の中には、さまざまな出来事がありました。赤坂家へ嫁いでやがて半世紀にもなります。夫芳雄が二代目弘翁の跡を継いだ昭和50年、米国住宅産業視察研修団に参加。その堅牢性、耐久性、寒地への適性を見るにつけ夫は「これからはツーバイフォーを俺の生涯の仕事としよう。」と誓い「直子俺についてくるか」と云う言葉が忘れられません。翌昭和51年十勝で初となるツーバイフォー工法住宅を誕生させました。
その頃は住宅需要をとりまく環境はオイルショック、高金利時代、土地の高騰、資材の値上げ等により頗る悪く苦悩の連続でした。その対策として住宅施工見学会の実施。(、)新聞広告、ラジオやテレビでの宣伝、大学の先生を招致し一般の人を招いた研究会の実施などを次々に行った。こうして大変な時代の中ツーバイフォー工法一本で経営の安定化を確保して行くことが出来たのでした。また仲間と結束してツーバイフォー工法の大きなメリットを需要者にPRする必要性から十勝2×4協会を立ち上げ、初代会長に夫芳雄が選出されました。今日全国で最もツーバイフォー工法のシェアの高い地域と云われる十勝の基盤を夫芳雄が中心になって確立していったのです。
ツーバイフォーを始めて10年、夫は突然の病魔に襲われ急逝。跡を継いだ私を苦悩のどん底から救ってくれたのはお世話になった多くの方々のおかげであります。その後専務の梅田さんが引き継ぎ、息子の正にバトンを渡してくれました。二代目弘翁が95歳で大往生を遂げ、梅田さんも亡くなりました。私も年を取りましたが、息子を少しだけ補佐して頑張っています。その息子は創業100周年の年に十勝2×4協会の会長の重責をつとめています。亡き夫と息子の何か運命的な感動を覚えるのです。
私は創業守成の精神で、更なる発展を目指して精いっぱい頑張りたいと存じます。お客様、お取引先様にとって価値ある存在の会社になること。社員にとっては、夢のある会社になることが大切であると思います。
美しい十勝の自然につつまれて
四季の移ろいを思い切り体感する。
ハクチョウの北帰行 豊頃町B様邸
ごあいさつ
創業100周年を迎えるにあたり
大正元年(1912年)創業の当社はお陰さまで2012年、100周年の節目を迎えました。
地域と共に歩み、今日がございますのは多くの皆様とのご縁や支えがあってのことと、心より感謝申し上げる次第です。
創業者の貞蔵、三代目の父芳雄は共に若くして他界し、私で六代目となりますが、この運命の路線も続く限り走り続けて行く決意であります。
過去の節目で時代を語る建物を数々建設していく中、ここ30年間は、2×4工法という寒冷地におけるグローバルな建築仕様を率先して取り組んで参りました。父の代で始めたこの「ツーバイフォー工法」も現在、十勝における住宅建設のシェア率では約50%にもなり、「十勝は2×4のメッカ」とこの業界で言われるほどになりました。今や多くの工務店、ビルダーが採用し、方法自体が差別化という時代ではなくなりつつありますが、更に環境対応を考えた仕様に進化させ、構造的にも強くデザイン面におきましても社会資産として価値のあるものづくりを今後も心掛けていきたいと考えております。
東日本大震災で脱原発の流れやエネルギー事情の変革が世界中で叫ばれているなか、大手家電業界が住宅建設に名乗りを挙げ、歴史上業界のありかたも大きく変わろうとしています。今、何が求められているのか?を見極めながら、創業以来の町医者的な工務店経営を肝に銘じて、アフター対応、自社大工による施工など、まず自分たちがやれることをこれからも一歩一歩進めて参りたいと思っております。
最後に、このたびの創業100周年にあたり、膨大な量の写真や歴史資料をまとめて下さり、記念誌、DVDを製作いただきました、長内淳様に心より感謝申し上げます。
静かな森林の中で生活をたのしむ
小鳥の鳴き声に合わせて楽器を奏でる。
思い切り自然と共生 池田町N様邸
年表
赤坂建設は創業100周年を迎えました。
大正、昭和、平成の各時代、風雪に耐えてここまで続けることが出来ましたのは皆様のお陰と感謝しております。
当社が転機となったのは、昭和51年ツーバイフォー工法の新しい取り組みでした。まだその技術もデータも不足し、更に厳冬の十勝での対応は未知なるものでした。それから30数年当社は益々技術に磨きをかけ邁進してまいります。
- 1907
- ●初代貞蔵、福島県より大工職人として胆振管内早来町に来道。
- 1912
- ●創業。鉄道開通、皮革工場池田進出と共に池田町に移転。建設業の看板を上げる。
- 1917
- ●赤坂弘が二代目頭首となる。
- 1933
- ●建設業に製材部を加え「赤坂木工場」開業。
- 1935
- ●大規模木造三階建、中島病院(池田病院)の建設。
- 1972
- ●赤坂芳雄が三代目代表となる。
- 1976
- ●道東で第1号のツーバイフォー工法住宅を建設。十勝におけるツーバイフォーの歩みが始まる。
- 1982
- ●社名を「株式会社赤坂建設」として法人化。
- 1983
- ●(財)住宅建築省エネルギー機構主催「全国省エネルギー住宅コンクール」において、(社)日本ツーバイフォー建築協会会長賞を受賞。
- 1984
- ●ツーバイフォー工法によるタウンハウスを建築。
- 1985
- ●四代目社長に赤坂直子が就任。
- 1986
- ●日本建築学会主催による「第1回環境設計競技」において全国入選。
- 1988
- ●カナダの超高性能「R-2000」実験住宅の建設。協力:カナダ大使館、カナダブリティッシュコロンビア州林産審議会、(社)日本ツーバイフォー建築協会北海道支部。
- 1989
- ●建主様方による「赤坂建設友の会」設立。
- 1990
- ●単身者向きアパートメント「シルペーク」建設。
- 1991
- ●創業80周年記念誌発行。ツーバイフォー木造三階建て住宅の建設。北海道主催による「北方型住宅モデル50選設計コンテスト」において奨励賞受賞。(HASHIMOTO BOLES事務所との日加共同作品)
- 1992
- ●キムラ社主催による設計例コンペティションにおいてカレドコ賞を受賞。「TJI」「マイクロラム」などの米国製ハイテク木材の使用開始。
- 1993
- ●マックス社製フレーミングマシンの導入により、パネル工法開始。
- 1994
- ●十勝2×4協会15周年において、故赤坂芳雄が功労者として表彰される。
- 1995
- ●コンピュータネットワーク導入。
- 1996
- ●労働大臣認定枠組壁建築技能士3名誕生。クボタ主催施工例写真コンテスト入賞。
- 1998
- ●宅地建物取引業開業。スカート基礎断熱工法導入。
- 1999
- ●五代目社長に梅田和敬が就任。ユニバーサルデザイン住宅建設。次世代省エネルギー基準スタート。ホームページ開設。
- 2000
- ●トリプルLOW-E木製サッシを採用したスキップフロア型スカート工法モデル住宅の建設。サヤ管ヘッダー方式本格導入。北海道住宅保障・登録制度に加入。
- 2001
- ●利別にモデル住宅建設。電気ボイラーを暖房方式に採用。
- 2002
- ●90周年記念ビデオ「ツーバイフォーに賭けた男」の製作。
- 2003
- ●アディス増改築工房/帯広事務所を開設。クボタ主催施工例写真コンテスト入賞。
- 2004
- ●日本ツーバイフォー建築協会より、棟梁中嶋正義に「優秀フレーマー賞」。
- 2005
- ●帯広事務所の建築物と外構計画に「第1回帯広市まちづくりデザイン賞」。六代目社長に赤坂正が就任。
- 2006
- ●棟梁中嶋正義に「国土交通大臣顕彰」と「建設マスター」の称号。
- 2007
- ●ホームページリニューアル
- 2010
- ●国の長期優良住宅先導事業による「北方型住宅ECO」を公開。十勝産カラマツ材による2×4住宅の建設。十勝2×4協会会長に当社赤坂正が就任。
- 2011
- ●創業99周年感謝祭 タカラスタンダード社
- 2012
- ●創業100周年
初代社長
1907(明治40)年~1917(大正6)年
初代 赤坂貞蔵
初代、赤坂貞蔵は福島県田村郡滝野村大字広瀬出身。大工職人である彼は、自らの技能を新天地で発揮してみようと、明治40年(1907年)に妻はつと3人の子供を抱えて胆振管内早来町へ渡ってきた。当時の早来町はカシワの樹皮から皮なめしなどに使うタンニンを採取する工場桜組製渋所の皮革工場が明治35年に創業し盛況だった。貞蔵は製渋工場の大工職人として身を立てることになりました。
桜組の後身である日本皮革会社が十勝のカシワに着眼、明治44年早来工場を閉鎖し池田町に工場を新設した。大正元年(1912年)、先輩吉村氏(元帯広市長吉村博さんの父)のすすめもあって一家をあげて移り住むことになった。工場は清見ヶ丘のふもとに設けられ製渋会社と呼ばれ、開拓途上にあった池田の町のムードをいやが上にも盛り上がらせた。
貞蔵は大通6丁目南角に居を構えて建築業の看板をあげた。タンニンを採取する工場は幕別村止若にも新田帯革(後の新田ベニヤ)があり、カシワの宝庫といわれた十勝平野に二大工場が出現。製品は国際的にも引っぱりだことなり、鉄道の開通とともに、農産物も年ごとに増大し、商業も早い歩みで発展していった当時、仕事も繁盛していった。しかし不幸にも病に冒され大正6年(1917年)4月幼い子供達を残して他界してしまった。時に42歳の若さであった。
ヒストリー目次 「創業100周年記念誌」より抜粋
- 1 | 1907(明治40)年~初代社長赤坂貞蔵 池田町で赤坂建設創業
- 2 | 1917(大正6)年~二代目社長赤坂弘 病院建設では大工45人以上を動員
- 3 | 1972(昭和47)年~三代目社長赤坂芳雄 十勝・ツーバイフォー工法のパイオニア
- 4 | 1985(昭和60)年~四代目社長赤坂直子 『赤坂建設友の会』誕生
- 5 | 1999(平成11)年~五代目社長梅田和敬 「R‐2000」仕様住宅を実現
- 6 | 2005(平成17)年~六代目社長赤坂正 大工育成・プランニング力・防災対応力強化